2026年5月27日水曜日

パキスタンの学校安全を支えるWASH環境:3州の現状と課題

 パキスタンは、安全な水へのアクセスが制限されている国の中で世界第9位にランクされており、約2,100万人が深刻な課題に直面しています 。学校における水・衛生・手洗い(WASH)環境の不備は、単なるインフラの問題に留まりません。それは、下痢症やコレラ、呼吸器感染症といった伝染病を招き、子どもたちの身体的・認知的発達を阻害する「学校安全」上の重大なリスクとなっています


本記事では、最新の文献レビューに基づき、ハイバル・パフトゥンハー(KP)州、シンド州、パンジャーブ州における現状と、子どもたちの安全を守るための介入策について詳しく解説します。

1. 学校における水質汚染の深刻な実態

パキスタン全土の学校において、飲料水の微生物汚染が深刻な脅威となっています。

  • 微生物学的リスク: KP州では特定の地域で全てのサンプルから大腸菌やチフス菌、コレラ菌が検出されており、シンド州の小学校でもサンプルの約半数が大腸菌(49%)や赤痢菌(63%)に汚染されています

  • 物理化学的汚染: シンド州南部では、海水混入や排水処理の不備により、TDS(全溶解固形分)や塩化物が基準を超過し、「飲用に適さない」と判定される学校が約26%に達しています

  • 健康への直接的影響: シンド州の定量的微生物リスク評価(QMRA)によると、児童の年間発症確率はカンピロバクターで70.0%に達するなど、極めて高い健康リスクが裏付けられています

2. 感染症リスクを高める社会的・環境的要因

子どもたちの安全を脅かす要因は、学校内だけでなく家庭や地域社会とも密接に関連しています。

  • 家庭環境と教育: 親の教育水準、特に父親が読み書きできない場合、子供の原虫感染リスクは4.82倍に増大するというデータがあります 。また、家庭内でのペット飼育や、母親の適切な手洗い習慣の欠如もリスク要因です

  • 地理・インフラ: 山間部の谷に居住する子供は、砂漠平原の住人に比べ7.23倍感染しやすいことが判明しています 。学校や家付近のゴミの山、未改良のトイレ施設の使用もリスクを劇的に高めています

  • 栄養状態: パンジャーブ州では、不衛生な環境による頻繁な下痢が、子供の発育阻害(低身長)を悪化させており、「栄養不良の二重負荷」が課題となっています

3. 「知識」と「実践」の大きな乖離

学校安全において最も困難な課題の一つが、衛生知識が実際の行動に結びついていない点です。

  • 意識のギャップ: KP州の学生の97.9%が手指衛生の重要性を認識していますが、実際に学校で手洗いを行う生徒は33.0%に過ぎません

  • 物理的制約: 実践が進まない背景には、学校の約半数で石鹸と水が利用できないという深刻なインフラ不足があります

  • 文化的障壁: 「水だけで手洗いは十分である」という誤解(27.8%)や、月経を「不浄」とする文化的な忌避感が、適切な衛生行動を妨げる要因となっています

4. 医療アクセスの欠如と自己診療のリスク

適切な医療へのアクセスが制限されている地域では、保護者による不適切な「自己診療(セルフメディケーション)」が蔓延しています。

  • 不適切な薬物投与: KP州アボッターバードでは、医療従事者への不信感(95%)や経済的理由から、親が自己判断で抗生物質(35%)などを含めた薬を子どもに投与するケースが多く、薬剤耐性(AMR)のリスクが懸念されています

5. 学校安全を高めるための効果的な介入策

こうした課題に対し、各州では多角的なアプローチによる成果が報告されています。

  • 行動変容コミュニケーション(BCC): シンド州では「社会的学習理論」に基づいた介入により、咳エチケットや手洗いの手順遵守率が劇的に改善しました

  • 学校拠点のアプローチ: パンジャーブ州での「3ツ星アプローチ」や、月経衛生管理を支援する「No Chutti(休みなし)」キャンペーンは、女子生徒の登校率向上や衛生環境の改善に寄与しています

  • 教育の統合: 栄養教育とWASH教育を組み合わせることで、児童の下痢や結膜の蒼白といった臨床的症状の減少に効果が見られました

結論

パキスタンの子どもたちが安心して学べる「学校安全」を実現するためには、単なるインフラ整備に留まらない統合的なアプローチが必要です 。学校での教育を核とし、家庭、コミュニティ、そして地域保健員(LHW)などの既存ネットワークと連携を強化することが、2030年までの持続可能な開発目標(SDGs)達成に向けた鍵となるでしょう

参考文献

  • Ahmad, S. (2024). Assessment of drinking water quality: Its health and marketing impacts. Munich Personal RePEc Archive (MPRA).

  • Ahmed, J., et al. (2020). Drinking Water Quality Mapping Using Water Quality Index and Geospatial Analysis in Primary Schools of Pakistan. Water, 12(12), 3382.

  • Ahmed, J., et al. (2020). Quantitative microbial risk assessment of drinking water quality to predict the risk of waterborne diseases in primary-school children. International Journal of Environmental Research and Public Health, 17(11), 3825.

  • Azhar, S., Faisal, M., & Aman, A. (2021). Self-reported maternal handwashing knowledge and behaviours observed in a rural hospital in Pakistan. East Mediterranean Health Journal, 27(7), 665–671.

  • Haq, I. U., et al. (2025). A qualitative exploration of parental perspectives and behaviors on self-medication for children under five in Abbottabad, Pakistan. Frontiers in Pediatrics, 13, Article 1445219.

  • Khattak, I., et al. (2023). Individual and community-level risk factors for giardiasis in children under five years of age in Pakistan: A prospective multi-regional study. Children, 10(6), 1087.

  • Perveen, S., et al. (2025). Improving nutritional status and health outcomes in school-going adolescents: a randomized controlled trial of nutrition and WASH education interventions in Gojra, Pakistan. Frontiers in Public Health, 13, 1440634.

  • Pradhan, N. A., et al. (2025). Intervention to Improve Children’s Hygiene in Urban Squatter Settlement Schools in Pakistan: An Implementation Research. Environmental Health Insights, 19, 1–12.

  • Pradhan, N. A., et al. (2020). School-based interventions to promote personal and environmental hygiene practices among children in Pakistan: protocol for a mixed methods study. BMC Public Health, 20(1), 481.

  • Sardar, A., & Behera, D. K. (2024). Wash Practices of School-Going Children in South Asia. International Research Journal of Economics and Management Studies, 3(1), 255-262.

  • Shoukat, Q., et al. (2025). Prevalence of waterborne diseases in different union councils of Abbottabad district. World, 6(2), 45.

  • UNICEF. (2022). Improving Water, Sanitation and Hygiene in Schools (WinS) – A case from Punjab province in Pakistan.

  • Zeeshan, M., et al. (2025). Assessing knowledge level regarding hand hygiene among school-going students at Charsadda, KPK, Pakistan: A cross-sectional study. Journal of Health, Wellness and Community Research, 3(10). 

2026年5月26日火曜日

学校安全の視点から見るパキスタンの児童の視覚環境と衛生的課題

 パキスタンにおいて、子供たちの視覚障害や眼疾患は、単なる個人の健康問題にとどまりません。それは、学校生活における不慮の事故リスクを高め、学習機会の喪失や将来の経済的困難に直結する「学校安全」における深刻な社会課題となっています。

近年の文献レビューに基づき、同国における「屈折異常(視力低下)への安全管理」「感染症リスクへの安全教育」、そして「デジタル技術を用いた校内スクリーニング体制」について、学校安全の視点から解説します。


1. 視力低下の見落としがもたらす「校内安全」へのリスク

近視、遠視、乱視といった「屈折異常」は、子供たちの学習権を脅かすだけでなく、校内での怪我や事故に直結する安全上の盲点です。

  • デジタル化に伴う新たなリスク(危険因子の変化) KP州アボタバードのアユーブ教育病院の調査では、受診者の約73.6%に屈折異常が認められました。特に若年層では、読書やデジタル端末の使用増加といった「近業」の広がりが近視に拍車をかけており、学校環境におけるリスク要因が変化していることを示しています。

  • 特別支援学校における安全管理の不備(脆弱性の課題) ペシャワールの特別支援学校での調査によれば、17.3%の児童に屈折異常があったものの、実際に眼鏡で適切に視力矯正されていたのは、わずか4.0%でした。視覚的な危険察知能力が低下したまま放置されることは、校内での転倒や衝突などの活動中の事故リスクを増大させます。

  • 学校生活への適応悪影響 視力の問題が放置されると、黒板が見えないことによる学習意欲の低下だけでなく、周囲の状況把握が遅れることで、集団行動への不適応や性格形成、ひいては不登校や教育機会の喪失といった「心の安全(福祉)」をも脅かす要因となります。

2. 小児眼疾患の早期発見と医療アクセス(保健管理のミスマッチ)

カラチの三次眼科施設における5年間のデータ(2015-2019年)は、学校保健安全法のような体系的な校内検診・救急処置体制が未整備である現状を浮き彫りにしています。

  • 校内で蔓延しやすい疾患への対策 受診理由で最も多いのは、集団感染のリスクが高い「結膜炎(32.67%)」であり、次いで屈折異常(20.08%)、斜視(14.7%)でした。

  • 学校保健と地域医療の連携不足 これらの疾患の約60%は、本来であれば学校検診や地域レベルの一次医療施設(保健室や地域クリニック)で対応可能な「軽微な問題」です。しかし、校内での早期診断体制がないために、大病院(三次病院)に患者が集中し、適切な治療のタイミングを逃す事態を招いています。

  • ジェンダーによる安全網の偏り 受診者の55%以上を男子が占めており、女子児童が医療や安全な健康管理へのアクセスから取り残されやすいという、ジェンダー格差の課題も存在します。

3. 「安全教育」の成功例:トラコーマ撲滅と変化の主体としての児童

大きな成果として、パキスタンは2024年に、失明の主要原因である感染症「トラコーマ」の公衆衛生上の撲滅をWHOにより認定されました。この成功の背景には、学校を拠点とした「安全教育・衛生教育」の優れた戦略がありました。

  • 「WASH大使」による行動変容の推進 水・衛生(WASH)環境の改善に合わせ、児童自身を「WASH大使(衛生安全のリーダー)」として育成する戦略が功を奏しました。

  • 学校から家庭・地域へ広がる安全網 子どもたちが学校で学んだ衛生知識を家庭に持ち帰り、手洗いや洗顔を促す「変化の主体」となりました。これにより、地域全体の感染リスクを下げるという「地域安全」に貢献しただけでなく、体調不良による欠席を減らし、学校の出席率向上という教育面の安全保障(セーフティネット)をもたらしました。

4. デジタル技術を活用した校内スクリーニングと保護者連携(組織的対応の壁)

パンジャーブ州では、スマートフォンアプリ「Peek」を用いた大規模な校内視力スクリーニングが実施され、学校安全のデジタル化への可能性を示しました。

  • 高精度な校内検診の実現 約15万人を対象とした調査で、このアプリが専門知識の乏しい教育現場でも、高い診断精度で子供たちの眼疾患を特定できることが証明されました。

  • 「事後措置」における家庭連携の障壁 しかし、異常が見つかり受診を推奨された子供のうち、実際に医療機関を受診したのは47.1%に留まりました。「スクリーニング(発見)」ができても、保護者の危機意識の不足、医療施設への距離、経済的負担といった壁により、適切な「事後措置(治療)」につながらないという、学校危機管理上の課題が残されています。

学校安全の視点からの提言と今後の展望

文献レビューの結果から、パキスタンの学校において子供たちの生命・身体の安全を守り、学習の質を担保するためには、以下の3つの「学校安全計画」の策定が必要です。

  1. 学校を拠点とした検診の義務化(安全管理の徹底) 斜視に伴う弱視などは、早期発見によって永続的な視力喪失(身体的損傷)を防げます。すべての学校やマドラッサー(宗教学校)において、定期的な視力検診・眼科検診を制度として義務化することが不可欠です。

  2. 学校・地域・専門医療をつなぐ紹介システムの構築(組織体制の強化) 校内の検診結果から、地域の検眼士や専門医へとスムーズにつなぐ「救急・紹介ルート」を明確にし、大病院への一極集中を防ぎつつ、受診率を100%に近づけるアプローチが必要です。

  3. 持続可能な衛生・安全教育のカリキュラム化(安全教育の定着) トラコーマ撲滅の成功体験(WASH大使の仕組み)を一時的なものとせず、自他への危険予測や健康維持の能力を育む「安全教育」として、学校のカリキュラムに恒久的に組み込むべきです。

参考文献

  • Saleem, B., et al. (2021). Prevalence of refractive errors among the children of Special Education Complex, Peshawar. Journal of Gandhara Medical and Dental Science, 5(1).

  • Aman, S., et al. (2025). Implementation outcomes of a school-based visual screening program using the peek tool in low-resource settings in Pakistan. BMC Public Health, 25, 4120.

  • Khan, A. A., et al. (2025). Field notes: Children as WASH ambassadors—Insights from Pakistan’s trachoma elimination programme. PLoS Neglected Tropical Diseases, 19(12).

  • Zahir, K. K., et al. (2023). Frequency of Amblyopia in strabismus patients presenting to tertiary care hospital. Romanian Journal of Ophthalmology, 67(1).

  • Wazir, J. F., et al. (2023). Distribution Pattern of Trachoma in Pakistan and Monitoring the Effects of Water Availability upon Disease prevalence. Pakistan Journal of Medical & Health Sciences, 17(06).

  • Khan, A. A., et al. (2020). Prevalence of trachoma in Pakistan: results of 42 population-based prevalence surveys from the Global Trachoma Mapping Project. Ophthalmic Epidemiology, 27(2).

  • Bukhari, S., et al. (2022). Five years’ retrospective analysis of childhood ocular morbidities. Pakistan Journal of Medical Sciences, 38(6).

  • Sirang, Z., et al. (2019). Types of refractive errors in northern Pakistan: a hospital-based survey. Ophthalmology Journal, 4(2). 

2026年5月22日金曜日

学校安全の新領域:パキスタンにおける肝炎対策と教育継続性の保障

 学校安全の概念は、自然災害や物理的な事故への対応のみならず、子どもたちが健康に学びを継続できる「衛生的・医学的安全」の確保へと拡大しています。パキスタンにおいて深刻な課題となっている肝炎の蔓延は、現在、学校現場における重要な安全管理項目として浮き彫りになっています。なお、この情報は、2019年4月から2026年5月現在までに、本研究メンバーが継続して収集した肝炎に関連するメディア記事をまとめたものとなっています。


1. 学校現場における感染リスクの顕在化

教育施設は本来、子どもたちにとって最も安全な場所であるべきですが、パキスタンでは学校内での集団スクリーニングにより、看過できない実態が明らかになっています。

  • 学童期の感染事例: 2022年11月、パンジャーブ州ファイサラーバードの学校で実施されたスクリーニングでは、255人の児童が肝炎(A、B、C型)に感染していることが判明しました

  • 潜在的な脅威: 2020年には、国内で毎年70万人が陽性と診断されるという極めて高い感染率が報告されており、学校コミュニティ内での二次感染防止は急務となっています

2. 学校安全を支える「スクリーニングと予防接種」

政府は、学校を「感染症対策のハブ」と位置づけ、物理的な安全だけでなく、医学的なスクリーニングを安全管理のプロセスに組み込もうとしています。

  • 学校診断への統合: パキスタン政府は、学校で実施される定期的な健康診断に肝炎検査を正式に組み込むことを検討しています 。これは、早期発見によって子どもたちの長期欠席を防ぎ、教育の継続性を担保するための戦略的な動きです。

  • ワクチン接種の重点化: 若年層を対象としたワクチン接種の重要性が強調されており、学校を通じた啓発活動が安全対策の一環として強化されています

  • 地域社会への波及: シンド州では「肝炎のないシンド」プログラムを通じ、2026年までに200のスクリーニング・ワクチンセンターを設置し、農村部の子どもたちを含む一般市民への意識向上を図っています

3. 医療安全基準(SOP)の遵守と学校への波及

学校安全を脅かす要因として、地域の医療機関における「不安全な医療行為」が指摘されています。

  • 不適切な器具の使用: 汚染された注射器の使用や不適切な輸血、さらには病院当局による標準業務手順(SOP)の怠慢(滅菌器具の不使用)が、地域社会および子どもたちの感染リスクを高める主因となっています

  • インフラと衛生(WASH): 2020年のアウトブレーク事例では、汚染された水や設備不足が原因として挙げられました 。学校における安全な飲料水の確保と、水と衛生(WASH)の改善は、肝炎予防における物理的防壁となります

4. 教育的アプローチによる社会的障壁の除去

学校安全の観点からは、病気による「差別」からの保護も重要です。

  • 差別の撤廃と法的枠組み: バローチスターン州などでは、肝炎患者に対する差別をなくし、適切なケアを提供するための法的枠組みの整備が検討されています

  • 意識向上キャンペーン: 2024年以降、大規模な意識向上キャンペーンが全国で展開されており、子どもたちが正しい知識を持つことで、感染リスクを回避する能力(ライフスキル)を養うことが期待されています

結論

パキスタンにおける「学校安全」の構築は、建物の耐震性や物理的防犯にとどまらず、肝炎という「目に見えない脅威」からの防衛を内包しています。2030年の肝炎排除目標に向けた政府のロードマップは、学校を起点としたスクリーニング、ワクチン接種、そして衛生教育を統合することで、子どもたちの学びと命を同時に守る取り組みへと進化しています。

2026年5月21日木曜日

パキスタンにおけるインクルーシブ教育:理想と現実の狭間で、いかに「学校安全」を担保するか

 パキスタンにおける教育アプローチは今、大きな転換期を迎えています。すべての児童の権利を保障する「インクルーシブ教育」へと舵が切られ、現場では模索が続いています。しかし、障害のある子どもたちを通常学校に受け入れる(メインストリーミング)にあたり、絶対に忘れてはならない視点があります。それが「学校安全(School Safety)」です。

本記事では、最新の文献や現地NGOの動向をもとに、パキスタンのインクルーシブ教育が抱える課題を「学校安全」の観点から考察します。

1. 教育アプローチの枠組みと「意識上の障壁」

パキスタンでは、パンジャーブ州の小学校などで軽度障害児(CWDs)を通常の学級に受け入れる実践が報告されています(Usman et al., 2022)。個別化教育計画(IEP)の策定や「リソース・ルーム」の活用といった指導法が強みとして認識される一方(Kamran et al., 2024)、Khan & Sajjad (2025) は、多くの教員が依然として分離教育を好むという意識上の障壁を指摘しています。

この教員の理解不足は、学習面だけでなく「安全管理上のリスク」に直結します。障害の特性や、緊急時に必要な個別支援への理解が不十分な状態では、災害や事故が発生した際に適切な避難誘導が行われない危険性があるからです。

2. 支援体制の不備がもたらす「学校安全」への脅威

インクルーシブ教育の核心である「リソース・ルーム」や学校インフラの現状を「安全」の視点から見直すと、より深刻な実態が見えてきます。

  • 建築学的障壁と避難リスク: Malik et al. (2018) は、スロープの欠如などリソース・ルームへの物理的アクセスの悪さを指摘しています。これは日常的な教育機会を遮断するだけでなく、地震や火災などの緊急時において「致命的な避難障壁」となります。構造自体が障害児に適していない学校(Usman et al., 2022)では、災害時の二次災害リスクが極めて高くなります。

  • 現場の工夫と安全の限界: Chauhdry (2021) は、教員が教室内で教材を修正(Modifications)し、柔軟な支援を模索している現状を報告しています。しかし、教員個人の工夫だけでは、ハードウェアとしての学校インフラの危険性(階段の段差、滑りやすい床、アクセシブルな避難経路の欠如など)をカバーしきることは不可能です。

3. 「形だけの入学」と法的保障の盲点

パキスタン憲法第25-A条は無償教育を保障していますが、法政策の中に「リソース・ルーム」の運用や安全基準に関する具体的な規定は明記されていません。専門教員の配置や支援環境が整わないまま入学だけが進む「形だけの入学」(Khan & Sajjad, 2025)は、「安全対策の置き去り」を意味します。

Kamran et al. (2024) が主張する支援技術(Assistive Technology)の無償提供は、学習のためだけでなく、移動や危険検知など、子どもたちの「自立的な安全確保」のためにも不可欠な法的保障だと言えます。

4. 考察:「学校安全」を組み込んだ包括的アプローチ

今後、パキスタンで具体的な事業を展開していく上で、「インクルーシブ教育の推進」と「学校安全の確保」は一体のものとして議論されなければなりません。

インクルーシブ教育における「学校安全」の3つの柱

  1. ハードウェアのバリアフリー化(減災・防災インフラ) Malik et al. (2018) が提言する学校建築の改修事業には、単なるスロープの設置に留まらず、車椅子児童が迅速に避難できる幅広の避難経路の確保や、視覚・聴覚障害児に危険を伝える防災設備の導入が含まれるべきです。

  2. 多職種・コミュニティ連携による防災ネットワーク Khan & Sajjad (2025) が重視する「地域社会や専門家を巻き込んだ包括的なサポート事業」の中に、防災組織や消防、保健医療セクターとの連携を組み込む必要があります。障害児ごとの避難計画(個別安全計画)の策定が求められます。

  3. 教員研修(DSD等)への安全管理カリキュラムの統合 Usman et al. (2022) が提言する包括的研修事業や、Chauhdry (2021) の「修正スキル」習得事業において、障害の特性に応じた「災害時トリアージ」や「安全な移動介助」のスキルを必須科目に位置づけるべきです。

5. NGO・民間による先駆的事例と「学校安全」

こうしたハード・ソフト両面での包括的なアプローチにおいて、日本のNGOである難民を助ける会(AAR Japan)の取り組みは極めて示唆に富んでいます。

彼らがKP州(ハリプール、アボタバード)で実施している事業には、教員訓練やリソース・ルームの設置だけでなく、「学校のバリアフリー改修」「保護者対象の啓発活動・親の会の設立支援」が含まれています。これは、学校内だけでなく、家庭や地域コミュニティが一体となって、障害のある子どもたちの「日常の安全」と「非常時の命」を守る基盤づくりに貢献している好例です。

その他、パキスタン国内でインクルージョンを牽引する民間機関(ラホールのRising Sun Society、ラワルピンディのHassan Academy、アボタバードのKingstone School、カラチのSCEIなど)が実践する個別指導計画(IEP)の中にも、今後は「学習目標」と並んで「安全確保・危機管理目標」がより明示的に組み込まれることが期待されます。

おわりに

パキスタンのインクルーシブ教育は、「教室に子どもを迎え入れる」という第一段階から、「その教室と学校が、すべての子どもにとって等しく安全な場所であるか」を問う第二段階へと進む必要があります。「教育の権利」と「安全の権利」が両輪となって初めて、真のインクルーシブ社会が実現するのではないでしょうか。

参考文献

s   AAR Japan. (2025, June 26) 活動レポート「インクルーシブ教育」に取り組む現場の声:パキスタンの学校訪問記, https://aarjapan.gr.jp/report/19014/

s   AAR Japan. (2026, January 5) AARブログ 「アジア比較教育学会」でインクルーシブ事業を発表:パキスタンhttps://aarjapan.gr.jp/blog/20819/

s   Chauhdry, N. (2021). Modifications accepted and used by teachers in inclusive classrooms of Punjab, Pakistan. UMT Education Review, 4(2), 93–108. https://doi.org/10.32350/uer.42.05

s   Kamran, M., Bano, N., & Siddiqui, S. (2024). A SWOT: Thematic analysis of pedagogical practices at inclusive school of Pakistan. Societies, 14(2), 21. https://doi.org/10.3390/soc14020021

s   Khan, Y., & Sajjad, S. (2025). Exploring the inclusion of children with special educational needs (SEN) in government primary schools of Karachi: Perspectives of teachers and head teachers. Journal of Social Sciences and Media Studies, 9(2), 1–11. https://doi.org/10.58921/jossams.09.02.0531

s   Malik, A. M., Rashid, M., Awan, M. Y., & Alvi, I. B. (2018). The role of architecture in the identification of obstacles and spatial solutions to inclusive education. UMT Education Review, 1(2), 39–58. https://doi.org/10.32350/uer.12.03

s   Usman, M., Ahmad, M., & Ali, M. (2022). Inclusive education of children with special needs: Practices, opportunities and barriers. Journal of Inclusive Education, 6(1), 59–76. https://ojs.aiou.edu.pk/index.php/jie/article/view/515?utm_source=openai


社会的脆弱グループ関連情報:パキスタン経済白書2025-2026

今回の記事では、新たに発表された「 パキスタン経済白書 2025-2026(Pakistan Economic Survey 2025-2026) 」の記載内容の中で、社会的脆弱グループに関する記述に焦点をおいて紹介していきます。 パキスタン政府は経済調整や外部ショックが国民の福...