パキスタンにおける教育アプローチは今、大きな転換期を迎えています。すべての児童の権利を保障する「インクルーシブ教育」へと舵が切られ、現場では模索が続いています。しかし、障害のある子どもたちを通常学校に受け入れる(メインストリーミング)にあたり、絶対に忘れてはならない視点があります。それが「学校安全(School Safety)」です。
本記事では、最新の文献や現地NGOの動向をもとに、パキスタンのインクルーシブ教育が抱える課題を「学校安全」の観点から考察します。
1. 教育アプローチの枠組みと「意識上の障壁」
パキスタンでは、パンジャーブ州の小学校などで軽度障害児(CWDs)を通常の学級に受け入れる実践が報告されています(Usman et al., 2022)。個別化教育計画(IEP)の策定や「リソース・ルーム」の活用といった指導法が強みとして認識される一方(Kamran et al., 2024)、Khan & Sajjad (2025) は、多くの教員が依然として分離教育を好むという意識上の障壁を指摘しています。
この教員の理解不足は、学習面だけでなく「安全管理上のリスク」に直結します。障害の特性や、緊急時に必要な個別支援への理解が不十分な状態では、災害や事故が発生した際に適切な避難誘導が行われない危険性があるからです。
2. 支援体制の不備がもたらす「学校安全」への脅威
インクルーシブ教育の核心である「リソース・ルーム」や学校インフラの現状を「安全」の視点から見直すと、より深刻な実態が見えてきます。
建築学的障壁と避難リスク: Malik et al. (2018) は、スロープの欠如などリソース・ルームへの物理的アクセスの悪さを指摘しています。これは日常的な教育機会を遮断するだけでなく、地震や火災などの緊急時において「致命的な避難障壁」となります。構造自体が障害児に適していない学校(Usman et al., 2022)では、災害時の二次災害リスクが極めて高くなります。
現場の工夫と安全の限界: Chauhdry (2021) は、教員が教室内で教材を修正(Modifications)し、柔軟な支援を模索している現状を報告しています。しかし、教員個人の工夫だけでは、ハードウェアとしての学校インフラの危険性(階段の段差、滑りやすい床、アクセシブルな避難経路の欠如など)をカバーしきることは不可能です。
3. 「形だけの入学」と法的保障の盲点
パキスタン憲法第25-A条は無償教育を保障していますが、法政策の中に「リソース・ルーム」の運用や安全基準に関する具体的な規定は明記されていません。専門教員の配置や支援環境が整わないまま入学だけが進む「形だけの入学」(Khan & Sajjad, 2025)は、「安全対策の置き去り」を意味します。
Kamran et al. (2024) が主張する支援技術(Assistive Technology)の無償提供は、学習のためだけでなく、移動や危険検知など、子どもたちの「自立的な安全確保」のためにも不可欠な法的保障だと言えます。
4. 考察:「学校安全」を組み込んだ包括的アプローチ
今後、パキスタンで具体的な事業を展開していく上で、「インクルーシブ教育の推進」と「学校安全の確保」は一体のものとして議論されなければなりません。
インクルーシブ教育における「学校安全」の3つの柱
ハードウェアのバリアフリー化(減災・防災インフラ)
Malik et al. (2018) が提言する学校建築の改修事業には、単なるスロープの設置に留まらず、車椅子児童が迅速に避難できる幅広の避難経路の確保や、視覚・聴覚障害児に危険を伝える防災設備の導入が含まれるべきです。
多職種・コミュニティ連携による防災ネットワーク
Khan & Sajjad (2025) が重視する「地域社会や専門家を巻き込んだ包括的なサポート事業」の中に、防災組織や消防、保健医療セクターとの連携を組み込む必要があります。障害児ごとの避難計画(個別安全計画)の策定が求められます。
教員研修(DSD等)への安全管理カリキュラムの統合
Usman et al. (2022) が提言する包括的研修事業や、Chauhdry (2021) の「修正スキル」習得事業において、障害の特性に応じた「災害時トリアージ」や「安全な移動介助」のスキルを必須科目に位置づけるべきです。
5. NGO・民間による先駆的事例と「学校安全」
こうしたハード・ソフト両面での包括的なアプローチにおいて、日本のNGOである難民を助ける会(AAR Japan)の取り組みは極めて示唆に富んでいます。
彼らがKP州(ハリプール、アボタバード)で実施している事業には、教員訓練やリソース・ルームの設置だけでなく、「学校のバリアフリー改修」や「保護者対象の啓発活動・親の会の設立支援」が含まれています。これは、学校内だけでなく、家庭や地域コミュニティが一体となって、障害のある子どもたちの「日常の安全」と「非常時の命」を守る基盤づくりに貢献している好例です。
その他、パキスタン国内でインクルージョンを牽引する民間機関(ラホールのRising Sun Society、ラワルピンディのHassan Academy、アボタバードのKingstone School、カラチのSCEIなど)が実践する個別指導計画(IEP)の中にも、今後は「学習目標」と並んで「安全確保・危機管理目標」がより明示的に組み込まれることが期待されます。
おわりに
パキスタンのインクルーシブ教育は、「教室に子どもを迎え入れる」という第一段階から、「その教室と学校が、すべての子どもにとって等しく安全な場所であるか」を問う第二段階へと進む必要があります。「教育の権利」と「安全の権利」が両輪となって初めて、真のインクルーシブ社会が実現するのではないでしょうか。
参考文献
s AAR Japan. (2025,
June 26) 活動レポート「インクルーシブ教育」に取り組む現場の声:パキスタンの学校訪問記, https://aarjapan.gr.jp/report/19014/
s AAR Japan. (2026,
January 5) AARブログ 「アジア比較教育学会」でインクルーシブ事業を発表:パキスタンhttps://aarjapan.gr.jp/blog/20819/
s Chauhdry, N.
(2021). Modifications accepted and used by teachers in inclusive classrooms of
Punjab, Pakistan. UMT Education Review, 4(2), 93–108. https://doi.org/10.32350/uer.42.05
s Kamran, M.,
Bano, N., & Siddiqui, S. (2024). A SWOT: Thematic analysis of pedagogical
practices at inclusive school of Pakistan. Societies, 14(2), 21. https://doi.org/10.3390/soc14020021
s Khan, Y.,
& Sajjad, S. (2025). Exploring the inclusion of children with special
educational needs (SEN) in government primary schools of Karachi: Perspectives
of teachers and head teachers. Journal of Social Sciences and Media Studies,
9(2), 1–11. https://doi.org/10.58921/jossams.09.02.0531
s Malik, A. M.,
Rashid, M., Awan, M. Y., & Alvi, I. B. (2018). The role of architecture in
the identification of obstacles and spatial solutions to inclusive education.
UMT Education Review, 1(2), 39–58. https://doi.org/10.32350/uer.12.03
s Usman, M.,
Ahmad, M., & Ali, M. (2022). Inclusive education of children with special
needs: Practices, opportunities and barriers. Journal of Inclusive Education,
6(1), 59–76. https://ojs.aiou.edu.pk/index.php/jie/article/view/515?utm_source=openai